Leader's
インタビュー
富士通(株)に勤務、北米事業部長、欧州事業部長、常務理事海外営業本部長、英国ICL社常務取締役を歴任。
その後、日本BT(株)会長、(株)パワードコムの会長、BTジャパン(株)会長を経て現在、国際キワニス国際理事を務める。
北里光司郎氏
言葉が先走り、現状が伴っていない日本企業のグローバル化。
「国際理解」の段階から本当の意味での世界標準へ。
グローバル化の必要性は十分理解している中で、実際の日本の現状を見て感じることは?
藤井:現在グローバル化というのはもはや当たり前であり、必要性は誰もが理解していようになってきていますが、実際に日本の現状を見ていて、どのように感じていますか?
北里:そうですね、昨今”グローバル化”という言葉は非常にイージーに使われているし、グローバル化の必要性はどの企業も必要だという事は重々わかっているのですが、実態をよくみていくとグローバル化がまだ初期段階にあると思っています。
藤井:なるほど、初期段階と言うと具体的にはどの様なことでしょう?
北里:グローバル化というのはまず、「国際理解の段階」があって、その次に本当の意味でのグローバル化というのがあるが、日本の場合はまだ国際理解の段階だと言えるのではないでしょうか。国際理解の段階というのは、いろいろな国の違いを知って、理解して、その中でスムーズにいくようにしていこうという段階にあると思いますね。
本当の意味でのグローバル化というのは、他国を良く理解して、その上でスムーズに行くようにすることではなく、最初から世界の位置を考えて、自分の位置を考えて、そのうえで何をすべきかということを考えていくことにあります。
自分の国を中心に考えるのではなく、最初から世界の中で、何をすべきか、何ができるのかを考え行動し、人も育て、活動もするということになっていかないといけない。現状を見る限りでは日本はまだそのフェーズにはないと思っています。
日本では、本当の意味でのグローバル化が進まない理由は?
北里:まず一つ言えることは、覚悟ができていないということが言えるのではないでしょうか企業も個人も。
多くの企業を見ていると、まず日本の中での最適化を考える、そしてうまくいったら世界の中での最適化をしていこうと思っていますよね。最初から世界で何が起こっているのかを見て、そしてその世界の中で仕事をするという覚悟を持ち、行動をする。国際理解という意味では進んできていると思いますが、本当のグローバル化をしていくのには、もっと覚悟が必要なのではないでしょうか。
これは日本の政治も企業にも個人にも言えることなのではないでしょうか。
藤井:全く同感ですね。グローバル化と言う言葉が先行し、いろいろな取り組みをしてはいますが、現段階では国際理解という段階まできたのはいいものの、その後どのように推進していいのか決断できないというように思いますね。
他国はどうでしょうか?
北里:他国を見ていると、既にその先に行っている国も多くあります。もちろん国民全員がそういう意識になっているとは思えませんが、本当の意味でのグローバルリーダーが存在し、国や企業を引っ張っていますよね。
ところが、日本の場合は、日本の中でどうやって生きていくのか、場合によっては、もっと小さいコミュニティの中でどう生きていくのかということだけに終始してしまっているように思える。若者の内向き志向も進んでいるように感じています。
藤井:若者もそうですが、日本全体が受け身的な思考になってきている気がしますね。
北里:そうですね、受け身的になり、内向き志向になって、小さなコミュニティの中で最適化すればそれでいいと。それができて、必要があれば次の段階に行けばいいと思っている。でも、それではグローバルの変化の渦にのみ込まれてしまう。だから覚悟を持って、最初から世界の中で自分がどうなのかということを考えていかないといけない。
藤井:そうですね、真のグローバル化には、それだけの覚悟が必要ということですね。北里さんは、様々な海外での経験も多く、グローバルに活動をされてきましたが、その中でどの様なエポックメイキングがあったのか、ご自身のキャリアを振り返ってお話いただけますか?
グローバル・キャリアの初めの一歩。
「海外で活躍したい」と想いつづけることで道が拓けた。
藤井:最初は富士通に入社されたわけですが、その時あたりからどの様にグローバルでのキャリアを積んでこられたのでしょうか?
北里:私が社会に出る頃には、当時ホンダやソニーなど、既に海外で活躍している企業がありましたし、私が社会に出たのが、1960年、そして東京オリンピックが1964年ですよね。当時は成長してこれからどんどん海外に出ていくんだという流れがありましたし、私も海外の舞台で活躍したいと強く思っていました。
ところが、その様な機会は全然ありませんでした。最初に富士通に入社したのですが、所属部署も人事教育部門でしたし、当時はこればっかりは仕方がないなと思って仕事をしていました。まあ、今の時代であったら飛び出すのでしょうけどね。その時はそういう時代でしたから。
それでも、海外で仕事をしたいという想いは常に持っていましたし、そういう発信はしていたんですよね。それで、一番最初に任されたプロジェクトがハワイでJAIMSという教育研究機関をNPOで創るというプロジェクトでした。一番最初といっても、これが会社に入って10年目の時のことです。
藤井:10年ですか!ではその間にビジネスマンとしての土台を築いたということですね。
北里:そうですね、海外に想いを馳せながら国内の仕事をやっていたのですが、人事関連のことはその間に全てわかりましたし、社内に様々なネットワークも出来ました。今振り返ってみると、そこで培った経験や人脈がその後のキャリアでもの凄く役に立っていますよ。
どんどんリスクを取って新しいチャレンジをしていた富士通。
藤井:どの様な背景で教育機関を?
北里:当時富士通は、何とかしてアメリカ市場に乗り込まなければという意識がありまして、そこで、当時の社長がアメリカのシステムマインドとインターナショナルマインドの両方を兼ね備えた人材が必要であるということを提唱し、とにかくどこかに国際教育機関をつくろうという動きになったわけなんです。
外から見ると、数億円もお金を出して、そんなことやっていいのだろうかという批判もありましたけどね。当時の富士通は、とにかく前向きで、どんどんリスクをとっていた。コンピューターの開発なんて莫大なコストが掛かるのに、儲かるかどうかはわからない。それでも大きなリスクにどんどん挑んでいった。ものすごい経営者だと思うと同時に、そういう環境で働けたのは本当にありがたかった。
当時、IBMのCTOをヘッドハントして、カリフォルニアに開発センターを創ったのですね、技術力の高かった日本の半導体技術を活かして、IBMのソフトが使えて、性能コスト比で10%-20%位良いものを作っていた。お客さんにとっても安いランニングコストで提供できたので、世界で大ヒットしました。
片一方ではカリフォルニアで開発センター、そしてハワイでは人材教育機関と、世界の動向を見ながらしっかりと手を打っているんですよね。そういった設備だけでなく、人もたくさん海外に派遣していましたからね、大変なコストだったと思うんですが、そういった大きなリスクを取れる経営能力というのは素晴らしいものだと思います。
そういう会社の気質にもバックアップされて、私のグローバルキャリアがスタートしました。
藤井:海外で活躍したいという北里さんの情熱と、グローバル展開するぞ、という富士通の情熱が呼応して起きた必然のようにも思えますね。
北里:そうですね、人事教育部では国内の仕事ばかりでしたが、それをネガティブに捉えずに、物事のプラスの面に焦点を当てて考えていましたし、「海外で活躍するんだ!」という情熱は常にあったと思います。自分としてのビジョンを描くということは、大事なことだと思います。