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Leader's

インタビュー

今江博之氏

経歴:1960年に滋賀県生まれ。同志社大学商学部卒業後、村田機械、久米商事、シャトルワース、テサテープ、グラコと転職し、そしてテサテープに出戻りで社長になり、ギビンイメージング、現在日本ジョンクレーン代表取締役社長。

運命は1枚のガムから始まった。

型破りなリーダーへの道。(前編)

 

キャリアは海外とは無縁の環境からはじまった。

 

藤井:今江さんは、いくつかの外資系でトップを経験されていますが、今までにいろいろな成功体験や挫折などを経験されてきたと思います。今のリーダーとしての骨格がどの様につくられてきたのかを、いろいろ遡ってお話を聞かせてください。

 

早速ですが、ビジネスマンとしてどのようにスタートを切ったのかというところから教えてください。

 

今江:はい、よろしくお願いします。

私の場合、学生生活終盤になって「就職」という意識が出てきた時に、漠然としてはいましたが、海外と関われる仕事をしたいなという想いを持っていました。4大商社に入りたいと思っていましたが、大学ではあまり大したこともやっていませんでしたし、ちょっと難しいかなと。それで、海外に直販しているメーカーを探していて、ご縁があった村田機械㈱に入社しました。

 

当時村田機械には繊維機械、物流機器、工作機械、通信機器の4部門がありまして、その中でも維機械事業部であれば海外に行ける可能性がものすごく高かったので、そこに行きたかったのです。ところが海外の可能性が0の物流機器の部門に配属されてしまったんですね、それで1年半位大阪支社で、物流機器の販売をやっていたんですが、だんだん嫌になってきてしまったんですね。

 

それで人事課長に掛け合って、繊維機械部門の部長と面談をさせてもらうことになって、繊維部門に来てもいいということになったのですが、そのタイミングで、物流部門に輸出部というものを新設しようという動きがありまして、繊維部門でもその新設部門でもどちらか好きな方に行けということになりましてね。結果的に、新しい立ち上げの方が面白そうだからと物流部門の輸出部に行くことになりました。

 

1枚のガムから始まった海外への想い。

 

藤井:なるほど、では、最初から海外に興味があったわけですね、海外に興味を持ち始めたキッカケは何かあったのでしょうか?

 

今江:それに関しては、子供時代に遡るですが、小さい頃、親によく京都の動物園に連れて行ってもらっていたんですね。そこでね、どういう経緯かは覚えてないのですが、西洋人のご夫婦が、僕にガムをくれたんです。それが日本語がひとつも書いてないガムでしてね、子供心に、すごく特別なモノのような気がしていたんですかね。僕はそれを「アメリカのガムや!」と思って、それを食べずに大事にしていたんです。

 

そしたら、あるときそれを親父が食べてしまいましてね、それで僕は大泣きしたのを鮮明に覚えています。その時から、何かこう漠然とした憧れがあったんでしょうね。

 

藤井:何か運命的なエピソードですね、英語は得意だったのですか?

 

今江:中学の頃、篠原先生という英語の先生と出会って、その先生と馬が合うというか、その先生の教え方なんかも好きで、英語に対する興味は持っていました。非常にユニークな先生だったし、同じことを繰り返し教えてくれる先生でした。それで英語が好きになって、英語の成績もほぼ満点でした。ですが、高校と大学ではあまり勉強していなかったので、英語に興味はありましたけど、実力は全然だったと思います。

 

職を失う覚悟で海外へのキャリアを自ら切り拓く。

 

今江:輸出部に来たのはいいけど、英語はできない、輸出についてもよくわからんという状態…。その輸出部というのが部長と私と一つ下後輩とアシスタントの女の子の4人いまして、その一つ下の後輩というのが、英語も出来て、経験もあって、まあ、部長にもようかわいがられましてね。私は経験も無いしよくわからないこともたくさんある。負けず嫌いだったので、くやしくてね、当時は毎日終電まで仕事してましたよ。

 

輸出部に来て1年位たった時に、ある自動車メーカーがミシガン州に工場を出して、その設備として10億円位の受注が来たんですね。その受注の条件として、ミシガン州に会社出してくれという条件がありまして、「じゃあ誰が行くか?」ということになったので、「僕を行かせてくれ」って立候補したわけですよ。

 

そしたら「あかん」言われたんですよ。「なんでや?」って聞いたら「お前は心が弱いからどうせ泣いて帰ってくるんだろ」って言われたんですよね。そんなこと言われたら悔しいじゃないですか(笑)。 

 

「でも行かせてくれ!」って言ったんですよね。もうゴリ押しですよね。

すると部長が「わかった、じゃあ半年だけ様子見る。半年経ってダメだったら帰らせるからな。」と言ったんですよ。そしてこう付け加えたんです。「帰ってきたらお前席ないぞ」と。「もし半年で帰ってきたら、総務に行って“職をください”と言う覚悟あるか?」ということで、まあ、条件付きで行かせてもらうことになるんです。

 

藤井:それが何歳の時ですか?

 

今江:25歳ですね。

 

背水の陣、覚悟を持ってやり抜いたアメリカでの7年間。

 

藤井:それが最初の異文化でのキャリアということですね。

 

今江:異文化どころか、英語すらできない、「お前一体何しにきたんや!」というレベルでしたからね。電話掛かってきても何言ってるかわからないし… アメリカに行った直後に後悔しましたね、俺はなんでこんなとこに来てしまったんだと。毎日コンビニで買ったソーセージとパンばっかり食べて、夕日なんて見えた日には涙流れてきていましたよ。俺、何しにきたんだろって(笑)

 

藤井:本当に体当たりだったんですね、大変でしたけど、どの位で慣れたのですか?

 

今江:慣れたのは、3か月位ですかね、タンカ切って出てきた以上、帰るわけにもいかないし、帰ったら総務いかなきゃいけないですしね。もう覚悟して、孤軍奮闘していましたよ。

 

そしてしばらくしたら援軍を送ってくれたんですよね。そうなると分かち合える仲間もいるし、そのころには英語も聞き取れるようになってきたし、何がわからないかがわかってきて、やるべきことが明確になってきたんですよね。

 

まあそんなこんなで始まって、結局アメリカに7年いましたね。会社も15人位の会社になっていたし、その中の10人位はアメリカ人でした。そこでトップとしてやってきた経験は本当に今の私にとっても貴重な体験ですね。あの時の経験が無かったら、今の自分は絶対にないでしょう。

 

藤井:25歳という若さもあって吸収力も高かったと思いますし、その時期にそのような経験ができたのは、とても貴重でしたね。

 

自意識の高さが出て来て、周囲から嫌われるリーダーに。

 

今江:ただですね、今考えると恥ずかしいのですが、当時自分より年齢が上の人達の上に立っていたし、それだけのことをやった自分に対しても自負があったし、英語もその当時は自分が一番できるというようになっていたこともあり、日本に帰ってきたら、自意識過剰というか自信過剰というか、そういう状態になってしまって。

 

アメリカに行く前の日本での社会人経験なんて1年半だけですし、しかも半分嫌々やってましたから。日本でのビジネスの土台なんて一切無いに等しいわけですよ。日本に帰ってきて会社のみんなには異人だと思われていましたね。日本語のアクセントはおかしいし、身振り手振りがキザっぽく思われて、嫌われました。

 

帰ってきてからは、APAC関係のリーダーになったんですけど、その最初の評価の時に、とんでもないことに気づいたんですね。当時等級評価制度があったのですが、上司のミスで僕の等級がアメリカに行く前と変わっていなかったのですね。会社側のミスということで、結果的に特例として1等級上がったのですが、その後評価をめぐっていろいろとぶつかりまして退職することになります。まあ、今振り返れば、自分の自我の部分も大いにあったので、あれですけど、当時は自尊心も強かったですからね。

 

ということで、当時仕事でおつきあいのあったオーナー社長から声をかけてもらって、久米商事という日本の商品を中国に卸している会社でお世話になることになるのですが、息子が小児ぜんそくになったこともあって、退職して滋賀に帰ることになります。

 

ヘッドハンターからきた1通の手紙。

 

今江:仕事なんてすぐに見つかるだろうと思った上での帰郷だったのですが、滋賀では海外に関する仕事が思うように見つからず3か月位空いてしまいました。

 

そんな時に一通の封書が届いたんです。

 

それはヘッドハンターからの手紙で、私がアメリカに居た時に、デンバーで会社を持っていたジョン・マホーニという人がいたのですが、その人が当時僕のことをかわいがってくれていて、そのジョンがシャトルワースという会社の社外重役をやっていまして、そこが日本進出する際に、営業部長を探すのであれば、今江という男が日本に帰ったはずだから、あいつを探したらいいと言って、僕を探してくれていたのです。

 

その会社は横浜にあったので、また単身出ていくことになる。この会社がまた素人の寄せ集めのような感じでしてね。社長は電子部品会社から来ている社長で、工場長は製薬会社からきていた。システムものがわからない。電子部品から来た人たちは値段が安くても仕事を取れ取れいうし、工場は工場でコストダウンもせずに好きなように作っていた。そんなこんなをしていたら、2・3年経って日本は閉鎖しようということになって、社長がクビ切られ、工場長がクビを切られ、営業部等やっていた僕も最後まで残っていましたが最後に切られて日本は閉鎖となる。

 

それでまた僕は世に放り出されるわけです。

 

転職につぐ転職、そして出戻り社長に。

 

今江:その後3社からオファーを受けて、その中の一つがテサテープという会社。テープってのはあまり面白そうじゃないなとは思って、二の足を踏んだのですが、グローバル本社の人達が私の事をかってくれてまして。仕事内容もモノはテープだけども、日本の自動車産業、トヨタ、日産、ホンダ、これをグローバルに統括してくれという仕事だった。それが面白そうで、そこに入ることになる。

 

グローバルキーアカウントといってはいたが、日本の自動車会社にきちんと商売していないのに、グローバルもクソもないだろということで、会社の方針を変更させ、まずちゃんと日本の会社に日本の自動車産業の部をつくるということに、そしてそこの部長として4、5年やりました。

 

テサテープに入った時の日本のゼネラルマネージャーがドイツ人だったのですが、1年後にアメリカ人に変わりましてね、その人は4年程いたのですが、その人がアメリカに帰る時、当時部長が私を含めて3人いて、次のトップは誰だという話になるわけですが、その3人のうちの誰かなと思っていたら、そのアメリカ人が外から日本人を連れてきたんですね。そのこと自体も気に食わなかったのですが、その来た人がまた、合わなくてね。

 

その当時私は42歳位だったのですが、45歳位までには小さくてもいいから、トップとしてやりたいという強い想いを持っていました。そんなタイミングでまたヘッドハンターからのオファーがあり、グラコというアメリカ本社の日本法人の営業本部長の話があり、その会社の社長があと2年位でリタイアするから後任を頼みたいと言われ、これ幸いと転職しました。

 

しかし、グラコで半年位経った時に、テサの当時社外取締役の小松さんという、私もすごく尊敬していた方から連絡があり、「例のアメリカ人が外から連れてきた日本人を外すから、今江さんトップとして帰ってきてくれ」という話があった。当時の本社のCEOからも何度も「帰ってきてくれ」という電話をいただいたのです。

 

正直言うとすごい迷ったんですね、自分は一度外に出た人間ですし、それが帰ってきて、元同僚の上司になるわけですし、ドイツの本社の人達もどう思うのかというのも気になった。それでも小松さんと、当時のCEOが「そのことなら大丈夫だ」と言ってもらえたし、小松さんに戻ってこいと言われて断ったらバチが当たると思って、腹をくくってテサに帰ったのが44歳の時でした。

 

経営者としての失敗から、真のリーダーへの気付き。

 

今江:テサにトップとして戻るわけですが、結論から言うと、ほんとにうまく行かなかったですね。出戻りという時点でボタンの掛け違いがあったというのもありますが、とにかく自分が何とかしなくてはいけないと先走ってしまって、一人で突っ走ってしまいました。今考えると、本当にあの時やっていたことはほとんど間違っていたんじゃないかと思いますね。もう自分が自分が自分が・・・で突っ走って、後ろ向いたら誰もいなかったというような感じでした。

 

全て自分中心にモノを考えていました。そして自分の周りの人を否定しがちでしたね。そこからの一番の学びは、自分を中心にしたら絶対にあかんなと思いましたね。せっかく仲間たちがいるんだから、チームとして個を最大限に活かしていく、その方向付けをやっていくことこそ本来の自分の役目だった。

 

当時は方向性どころか何から何まで自分が決めないといけないといけない、自分でアイデアもださなくてはいけない、他人の話なんて聞く暇なんてない最低のリーダーでしたね。

 

藤井:リーダーとしてまだ未熟だったということもあるでしょうが、責任感も人一倍強かったんでしょうね。

 

今江:自分を呼び戻してくれた恩義に対してなんとしてでも応えようという想いはものすごくありましたけど、それでも、今思うと反省する点ばかりですね。

 

全くの異業種への転身。

 

藤井:そして、リーダーとして至らない点が多々あるという事に気が付いて、テサを辞めたのが、2009年。

 

今江:そうですね、僕をテサに引き戻してくれた小松さんの引き合いでカプセル内視鏡の会社に移ります。その話があった時にここらで医療関係にキャリアを大きく変えてみても面白いなということで、その会社に行ったんですね。

 

藤井:そこではまた事業形態が全然違って、苦労されたということは聞いていますが。

 

今江:そうですね、今まで一般産業ばかりやってきて、いきなり医療という世界に入ってみると、個人的に得意な営業部門というのがほぼないんですよね。一応あるはあるのですが、極めて代理店営業に近いんですね。

 

お客さんは、当然お医者さんなんですよね。彼らと話をしようと思ったら、よほど医学の知識がないとできないわけですよ。特にポジション的に社長なわけですから知りませんというわけにはいかない。代理店をいかにやる気にさせるかとか、そういう部分ではしっかり成果を上げていきましたけど、違和感は感じていましたね。

 

その会社はイスラエル会社だったのですが、国の特性なのか、その会社の特性なのかはわからないですけど、他人を犠牲にしてでも生きていこうという気質がありましてね、例えば、売上が上がらないとなると、在庫を代理店に抱えさせるわけです。代理店も在庫で溢れているから、当然「いらん!」って言うんですけど、そうなると「代理店契約切るぞ」って。自分にとって正義ではないそういう体質が非常に気に食わなくて半年で辞めるわけです。

 

自分本位の経営者から、真のリーダーに。
運命は1枚のガムから始まった(後編)はこちら。

北里光司朗氏

国際キワニス日本地区ガバナー

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