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Leader's

インタビュー

原田武夫氏

東京大学法学部在学中に外交官試験に合格、外務省に外務公務員Ⅰ種職員として入省。12年間奉職し、アジア大洋州局北東アジア課課長補佐(北朝鮮班長)を最後に自主退職。現在、株式会社原田武夫国際戦略情報研究所(IISIA)の代表取締役(CEO)を務める。

 

 

「すべての日本人に“情報リテラシー”を!」という想いの下、情報リテラシー教育を多方面に展開。自ら調査・分析レポートを執筆すると共に、国内大手企業等に対するグローバル人財研修事業を全国で展開する。また学生を対象に次世代人材の育成を目的とする「グローバル人財プレップ・スクール」を無償で開講するなど、精力的に全国を飛び回っている。

父の志を受け継ぎ、運命へ導かれるように

外交官の道へ

 

父の影響で海外との仕事に興味を持つ。

 

藤井:本日はよろしくお願いします。

最初は原田さんが、どの様にしてキャリアを作ってこられたのかをざっくばらんにお話をお伺いできればと思います。

 

原田:はい、よろしくお願いします。私が外交官を目指した大きな理由のひとつに父親の影響があります。

 

私の父は福岡の生まれで、そこから単身出てきまして、東京大学法学部を出ました。大蔵省に行きたく、国家試験も8番の成績で受かっていたようなのですが、実は私の祖父、父にとってのお父さんが、父が小学校4年生の時に亡くなっておりまして。今では人権問題になってしまいますけれども、当時の大蔵省では「片親の人は採用できない」とはっきり言われたらしく、断念しました。通産省からは「是非来なさい」と言われたようなのですが、父はあまり興味がなかったようで。

それで父は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった、新日鉄と東京海上(現・東京海上日動火災保険株式会社)とで迷った挙句、東京海上の船舶損害部に入ることになったんです。船とは全く関係なかったのですが、当時、いわゆるエリート・コースといわれる、船舶損害保険をやることになり、結局父は最後までずっとその仕事をしてたわけです。

 

私は、そんな父親の仕事を見ていて、海外との付き合いというのが、面白そうだと思い、そういう仕事を将来やってみたいなという想いは幼少の頃から持っていました。父は大蔵省に行けなかったことに対しては、挫折感は無かったものの、役人になれなかったというどこか悔しさみたいなものが、なんとなく滲んでいるように感じましたので、私が父に替わってそういう方向に進んでいこうという想いもありましたね。

北里光司朗氏

国際キワニス日本地区ガバナー

元BTジャパン(株)会長

藤田実氏

オグルヴィアンドメイザージャパン 名誉会長

西川盛朗氏

ヨコハマコンサルティング(株) 代表取締役社長 元・ジョンソン社日本法人社長(CEO)、会長

今江博之氏

日本ジョンクレーン(株)代表取締役社長

渡邉健太郎氏

エコラボ合同会社    代表取締役社長

原田武夫氏

IISIA 原田武夫国際戦略情報研究所 CEO

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TVで見た「綺麗なポーランド人の女性」をキッカケに、
ドイツ語を学び始めた、小学生時代。

原田:父の仕事の関係で、2歳まで高松におりまして、70年代半ばに東京の練馬に引越してきました。そして私が小学4年生の時に、父が家を買ったのを機に小平に移ってきました。父は1982年、今のようにMBA留学というものは無い頃でしたので、単身でニューヨークの弁護士事務所に3か月、更にロンドンの弁護士事務所に9か月と学びに行っています。

 

「大学に行くのなら東大に行ってくれ」という想いが父にはありまして、私は3人兄妹の真ん中なのですが、東大に行くなら中学も進学校にということで、まず兄が桐朋に、そしてその2年後に私もそこに入ることになります。

 

音大の系列ということもあり、音楽教育も盛んで、私は吹奏楽部に入ったのですが、音楽というのは非常にインターナショナルなもので、マーラーやその他諸々を学ぶ時にドイツ語が必要になってくることもあって、その時にドイツ語を勉強したんです。

 

藤井:なるほど、音楽をキッカケにドイツ語を勉強し始めたんですね?

 

原田:そうですね、ただ、ドイツ語を勉強し始めたということで言えば、実は小学4年生の時でして、NHKでやっているドイツ語の講座番組を見て自分でやり始めていましてた。キッカケは、当時愛川欽也さんが司会をやっていた『なるほど!ザ・ワールド』というクイズ番組がありましてね、その番組に非常に綺麗なポーランド人の女性が出ていまして…。

それで最初はポーランド語を学ぼうと思いましてね(笑) 

 

ですが、ポーランド語は言語の中でも最も難しい言語でもあって、小学4年生にはちょっと無理かな思ったのですね、それで次はロシア語をやろうと思ったのですが、ロシア語は、「トゥ ヨコハマ」が「フゥ ヨコマミ」になるんですね、格変化してしまうので、これもちょっと難しいなと。

それならば、今度はポーランドの西側だ!ということでドイツ語を学んでみたら、とても自分にマッチしたんですよね。それがキッカケです。それに加えて、中学・高校と吹奏楽の事もありまして一人でドイツ語を勉強しました。

 

藤井:面白いですね、小学生で語学を自発的にやり始めるというのもそうですが、普通最初は英語を学び始めますよね。

 

原田:そうですね、私は英語よりも先にドイツ語でしたね。そこがちょっと変なんですけどね(笑)。父は東大法学部の3つあるコースのうちでもⅡ類の公務員のコースではなくて、Ⅰ類の弁護士などになるコースだったこともあり、家に法律の本が並んでいました。ドイツ系の本も多くて、本を開けばドイツ語が並んでいましたし、音楽に興味を持ったらそこにもドイツ語が出てきて、何かしら縁があるのではないかなと。

常にリーダー的ポジション。
出来過ぎることで、他人からの疎外感を感じることも。

藤井:小学校時代、中学校時代はどの様な子供だったんですか?

 

原田:そうですね、率直に言うと常に疎外感を感じていたように思いますね、いかなる集団に入ってもそういう感じがありました。誰よりも早くその集団が課せられたミッションというのを理解できるし、それをできてしまうのですが、『普通のメンバー』というのができないんです。要するにリーダーをやるか、みんながやっているのをベイフェリーから軌道修正するなりという役割かのどちらかなんです。どちらかしかやらないし、やる気もない。

当時は人から習うこともすごく嫌いでしたね。吹奏楽ではクラリネットをやっていたのですが、先輩には絶対に習わなかったですし、ドイツ語もそうですね。全部一人でやろうとしてしまう。

 

その辺はどうも父親も同じような感じだったみたいで、自分で磨き上げていってしまうので、

一層周りが引いてしまうというね。私はそういう父を見ていて、自分はそういう風になりたくはないなと思いつつも、結局そういう方向に行ってしまいまして。

 

父は類Ⅰを受けるか、理Ⅲを受けるか最後まで迷っていたくらい理系もできる人でしたが、私の兄が数学が苦手でして、父は兄がなぜできないのか最後まで理解できないようでしたね。当時私も一事が万事そうでしたね、吹奏楽をやっている時も部長をやっていたのですが、出来ない人がなぜできないのか全く理解できませんでした。リーダーをやっていても、できない人の分を私がカバーに入るわけですが、そこでまたどんどん成長してしまうので、周囲とどんどん乖離していくという感じでした。 

 

藤井:私も随分たってから出来ない人には出来ない理由があるんだということを理解するようになりましたね。鐘紡でバリバリやっていた時には、なぜできないのかは全く理解できませんでしたからよく気持ちはわかります。 

 

原田:あるとき非常にショックな出来事がありまして、中学2年生の1学期にすごく仲良かった友達が、2学期になったらいじめにかかってきたんですね。例えば、私が休み時間にテラスで教科書を開いていたら、上からつばを垂らされたりね、まあいじめといってもそういう可愛らしいもんなんですが(笑)。

 

どうしたものかなと思っていたら、中学3年生の時の数学の先生が声をかけてくれたのです。何を言うのかと思ったら、「あなたは弁証法というのを知っていますか?」と言われたんですよね。「何ですか?」と聞いたら、「お前はそれを勉強すべきだ、正があるから反があるんだ、お前がいるから、みんながいるんだよ」と言ったんですね。当時私は「何を言ってるんだこの人」と思ったわけですね。少しは慰めてくれるのかと思ったら全然慰めてもくれないで、全然別の事を言われたので。今振り返って思うと確かにそうだなと思うようになりましたけどね。

 

藤井:なるほど、外務省でもいろいろな人も見てきたと思いますし、今は経営者としてやっておられるわけですから、今は非常に良くわかるんじゃないですか?

 

原田:そうですね、ようやく(笑)

高校生までの経験や興味関心から導き出された「外交官」という進路。

藤井:当時の友達関係はどうでしたか?

 

原田:そうですね、吹奏楽部ということもあって集団行動なのですが、私の学年の吹奏楽部は20名位いたんですが、その中できっちり、原田派とそうでない派が分れていましたね。原田派だった人達はどちらかというとキッチリやっていくタイプの人が多かったですね、そうでない人達は、「まあ適当でいいじゃない」というような感じの人が多かったです。

 

ですから、曲ひとつ決めるのも大変でした。延々と会議をしてましたね。そういった経験の中で私は政治に興味を持ち始めたのです。どうやって人を動かしていけばいいのかと。

 

ある時、指揮者を決めるということがありまして、当然私もやりたかったので、立候補したわけですが、私を含めて3人立候補しまして、私以外の2人は後に音大に進むのですが、そのうちの一人に決まったんですね。まあ今思えば小さい話なのですが、不条理を感じまして。その時に思ったのは、私が指揮者になってやりたかったことは”人を動かす”ということで、音楽に心酔することではないなということだったんです。

 

こういうことがキッカケで関心を持った「政治」と、元から関心のあった「外国」と、当時リッカーミシンが丁度倒産した時期だったのですが、本当に会社というのは取締役の判断一つであっという間に潰れてしまうんだなぁということを感じまして、それを見て私は「つぶれない会社」がいいなと思ったこと、その「政治」「外国」「潰れない会社」という3つを満たしていたのが「外交官」だったんですね、高校2・3年生の頃には「私は外交官になる」と決めていたんですね。

思わぬキッカケで大学3年生で外交官試験に合格。

藤井:なるほど、かなり、自分の興味や強み、社会の現状を把握して、未来を決めて実行していくタイプだったわけですね。

 

原田:そうですね、どの様な時でも、常にソリューションが出てくるというか、あまり悩むことが少ないですね。

 

藤井:そして東大に合格して、外交官を目指すわけですね。外交官試験に纏わるエピソードはありますか?

原田:外交官の試験は3年生の時に合格したのですが、本当は3年生で受けるつもりは無かったんですね。東大の場合は2年生の4学期に、文Ⅲから法学部に来る人達とクラスが一緒になるんですね、そこに合流してきた文Ⅲから来た人達の中に1人かわいい女の子がいたんです。

 

3年生になって本郷に行ったらその子が授業に出ていないんですよね。それで、「どこに行ったんだろう」と思って探してみたら図書館にいましてね、「何をしているの?」と聞いたら、「今年の外交官の試験を受けるから勉強しているの、3年生で受けられることを知っているでしょ?」と言ったんですよね。

 

それを聞いて、私は、”この子の後輩になりたくないな”と思い、それがキッカケで私も3年生で受けることにしまいて、結果、僕が受かってその子は落ちてしまったんですよね。

結局彼女は2期下で入って今でも頑張っています。

組織に尽くすことの意義を考えさせられた、父の死。

藤井:なるほど、原田さんらしいエピソードですね。原田さんは3人兄弟の真ん中ということですが、お兄さんも国に勤められているんでしたよね。

 

原田:そうですね、兄は本当は日本政治外交史で大学に残りたかったようなのですが、外交史の先生で、後に法学部長になられる立派な教授なんですけれども、その教授に兄貴が「大学院に受かりました」と報告に行くと、「君は論文書いたことがあるのか?」と言われたそうなんです。当時東大は総ゼミ制ではなかったこともあり、兄は論文を書いていなかったんですよね。すると「君は学者になるのに論文の一つも書いていないというのはどういうことなの?」と言われたようで、兄は、「俺はこんな世界で生きてはいけない」とその道をさっさと辞めてしまうんですね。

その時兄は、民間企業は全く受けていなかったのですが、「とにかく公務員1種試験は必ず受けなさいと。嫌でもいいから内定を一つとりなさい。」と父親に言われており、自治省から内定を取っていたのですね。ですが、最初は学者になろうと思っていた兄は断っていたんです。

 

父は自治省に何人か同級生がおりまして、頼んだんだとは思うのですが、1か月後位に自治省に行ったら、「君が来るのを待っていた」と言われ、今も自治省にいるんです。ほんとふざけた兄貴なんですけどね(笑)。兄は一浪していて、私は3年生で試験に合格したこともあって、霞が関では兄と同期なんですよ。吹奏楽でも一緒でしたし、役所も一緒ですし、今でも仲は良いですね。兄は国内を回る自治省、私は海外を回る外務省でしたので、いろいろと話も合いますしね。

 

藤井:そうなんですね、お父様にとっては誇りですね。

 

原田:そうなんですかね。兄が自治省、私が外務省に入った時に、父が「そうか、うちには大蔵省がいないってことなんだな。」と余計なことを言うんですよね。まあ今みたいな状況になると、財務省って重要だなと思うんですけど、当時は「何言っているんだろう、この人は。」と思いましたけどね(笑)。

 

藤井:お父さんはその後もずっと東京海上で勤め上げられて?

 

原田:いや実は、そうではありません。私が入省して1年経ってドイツのベルリンに在外研修に出まして、当時ドイツ・テレコムはとても高かったのですが、1万円位かけて日本に電話していたんですね、ところが毎週末父親が家に居ないんですよね。ゴルフだというのですが、それにしても夜の時間帯もいない。どうしたのかなと思っていたんです。

 

私は6月に赴任したのですが、その3か月後の9月に、当時群馬県庁に居た兄貴が、休みを取ってドイツまで来たんですよね。そして最初の晩に食事をしていたら、「実はお前に話があって来た。」と言うんですよ。私は「なに?結婚でもするの?」と言ったら「いや、そうじゃなくて、実は父が白血病なんだ。」と言うんです。

 

私が海外に出た直後に受けた検診で慢性白血病であるということが発覚したんです。私は2年研修があって、在外勤務になって1年目ですから、私が日本を出て3年目の時に亡くなってしまったんです。

 

当時1990年代前半というのは、海運自体の景気が下がっていた時期でしたので、船舶損害部というもの自体がいらないのでは?という話にもなっていたこともあり、94年の株主総会の時に父は取締役になれなかったんですね。今考えてみると、船舶損害部門はその当時は総売り上げの3%位まで落ち込んでいたようですので、そこから取締役なんていうのは普通に考えれば無理ですよね。父は生真面目な人でしたから、エリート部門とも言われた船舶損害部という冠がありながら、自分の代で初めて取締役になれなかったということに非常に責任を感じていたようでした。

 

父の亡くなった後も東京海上は非常に良くしてくれましたけれども、父が亡くなったことをキッカケに私は、「組織に尽くすとはどういうことなんだろうな。」と強く思ったわけです。これは私にとってその後の人生を考えるうえでも、非常に大きかったと思いますね。(後編へ続く)