Leader's
インタビュー
藤田実氏
昭和44年:J.ウォルター・トンプソンシカゴから株式会社マッキャンエリクソン博報堂営業局へ入社。
平成2年:株式会社マッキャンエリクソン博報堂筆頭副社長就任
平成7年:株式会社東急エージェンシー常任理事就任
平成11年:オグルヴィ・アンド・メイザー・アジアパシフィック取締役リージョナルディレクター就任
平成21年:オグルヴィ・アンド・メイザー・ジャパン株式会社(現オグルヴィ・アンド・メイザー・ジャパン合同会社)取締役副会長就任
平成24年:オグルヴィ・アンド・メイザー・ジャパン合同会社会長就任
平成24年:オグルヴィ・アンド・メイザー・ジャパン合同会社名誉会長就任(現任)
キャリアの原動力なったのは、”人との出会い”と、”体験”。
父の一言で決まった、六甲学院への進学。
藤井:藤田さんが今のキャリアを形成されるにあたって、エポックメイキングになった出来事や体験を教えてください。
藤田:私のキャリアを振り返ってみると、最初に訪れたターニングポイントというのは、私の親父が、六甲学院の中学・高校へ行かせると決断したことだと思いますね。私の父親はもともとカトリックの教育なんていうのは頭の片隅にもなかったのですが、街の噂で「六甲の山の上に、えらい厳格な人がいて、めちゃくちゃ厳しい男の子の学校があるぞ」ということを聞いてきた父親が、「うちの末っ子はスポイルされているから、そこに行かせて叩き直そう」と決断し、その一言で私は六甲学院に中学・高校の6年間通うことになります。
その六甲学院での教育は、男子教育で、教師の1/3は外国人教師ということもあり、英語が身近にあったということや、山の上に学校がありましたので、その坂を毎日駆け上がっていることで体も鍛えられましたよね。そして何より、今までの私の人生の中で恩師が4名いると思っているのですが、そのうちの3名とその6年間にめぐり合っているんですね。そういう意味で親父のその決断は私にとって非常に大きな影響を与えたと思っています。
受験失敗、そしてまたもや父の一言でアメリカへ。
藤田:ふたつ目のポイントとしては、私は体が大きかったこともあり、大学は藤井さんの母校でもある慶応大学へ行って、ボート(エイト)をやりたいと思っていました。成績もそんなに良くもなかったですけれども、悪くもなくて、当初は「藤田なら大丈夫だろう」といわれていたのだですが、スベッてしまいましてね。他の大学からオファーはあったのですが、どうしてももう一度挑戦して、慶応でボートエイトがやりたかった。勉強したいというのはあまり考えていなくて、とにかくボートエイトがやりたかったんですよね。
当時は日本も戦後の復興期でして、我が家は親父も長男も次男も三男も家業をやっており、スポーツ用品のメーカーで国内販売と一部海外貿易をやっていました。親父は社長ですから、とにかく忙しくていつも家にいないのですが、5月5日の子供の日だけは家族全員が家に揃う習慣がありましてね、今の人達には理解できないかもしれないですけれども、親父が順番に子供達に今何をやっているのかを聞いてくれる日だったんですね。
僕は7人兄妹(男4女3)の一番下でして、最後に順番が回ってくるのですけど、僕の番になった時に、「おう、実は最近何をやっとるんだ?」と聞かれ、「行きたい大学に行けなくて、今は塾に行って勉強してる」と言うと、父は「塾か・・・それはお前浪人か?」と聞かれ「浪人です」と答えたら、突然「きたならしい!」と言ったんですよ(笑)まあ、明治時代の人の面白いところですよね。
そして、唐突に「お前は浪人なんて辞めて、将来会社の貿易でもやるんだから、今すぐアメリカの大学に行きなさい。」と言ったんです。急な話に、心配した母親は親父を止めたのですが、あの時代の父親ですから決めたことは何があっても曲げないわけです。翌日六甲学院の校長で私の恩師でもある武宮隼人さんのところに相談に行くと言って出かけていきました。武宮氏も「それはいい!」と言って、ロバート・フリン先生に推薦できる大学を調べてもらい、数週間後にはロヨラ大学の入学案内が届きました。
このようにあれよあれよと言う間にアメリカの大学に行くことが決まって、1960年忘れもしない9月10日に羽田で水杯をして、友人知人はもとより、親兄姉と別れて、訳も分らんところにいかされる…。またもや父の一言で私の身に突然に起こった第2のターニングポイントですね。
六甲時代にもいつも私の可能性を考えて、それを伸ばそうとしてくれた武宮校長やロバート・フリン先生には本当に感謝していますね。
藤井:その後すぐにロヨラ大学へ行ったのですか?
藤田:突然アメリカの大学と言われてもどうしていいのかわからなかったので、神戸にある米国文化センターという施設にいた日系2世の方に相談したところ、「高卒でいきなりアメリカの大学なんて通用しない。」と言われました。
ミシガン州に「University of Michigan」という大学があり、そこにはEnglish language Institute というものがあり、全世界の外国人に正しい英語(特にr、l、th、f等の発音)とアメリカの社会や文化について教えていると勧められ、1960年の9月~11月の約2か月位、約7万人位の学生がいる「University of Michigan」に学びました。後に「どこで習ったんですか?」と驚かれるほど徹底して発音を習得できたことは、本当に良かったと思っていますね。その後身元引受人のところに2.3カ月程いて、1961年の2月からロヨラ大学シカゴへ入学しました。
あるとき見た夢を境に、退学寸前だった成績がドンドン上昇。
大学に入り、2年生になったある時、父親から手紙が来ました。家業のキャッシュフローが悪くなり、結果的に倒産してしまいましてね。その時に親父から来た手紙には、「聞いているかと思うが、我が家業は倒産した。ほとんど個人的な資産も無くなったけれども、お前が帰ってくるだけの旅費は用意してある、それを使って帰ってくるもよし、自分の力で大学を卒業するもよし、お前次第だ。」という内容でして、その手紙の文字は父の涙で滲んでいたんですよね。
このまま帰ってもどこかに編入できるわけでもないだろうし、何よりもこのまま帰るのは情けないと思った私は、ロヨラ大学の神父兼副学長であり、外国人留学生担当のレイモンド・バームハート氏に事情を話し、奨学金をもらえないかと相談してみました。すると彼は「藤田君、今の成績では奨学金どころか、残念ながら退学を勧めなければならないよ。だから帰る準備をしなさい。」と言ったのです。
本来ならそこで引き下がるところでしょうが、私は「お言葉ですが、先生、学問が難しいわけではありません、努力を惜しむつもりも毛頭ありません。ただ、残念ながら語学力が追い付いていないだけの話なので、もう1学期だけ様子を見てくださいよ。」と彼に言ったのです。
本来であれば「ルール通り、この成績なら退学です」と事務的にハンコをつくところでしょうけど、副学長はそれを聞いて、「あ、そう!そういうことなのね、わかったわかった!」と言ったんですよ。そのうえ、彼はシカゴのビジネスマンの友人に話をつけて、授業料等の面倒もみてくれたのです。
それから少し経ったある時、当時、学生寮に住んでいた私は、疲れてベッドでうたた寝をしていましてね、そしてパッと目を覚ました時に、”英語で夢を見た”ことに気づいたんです。面白いことに、それを境に、今までは頭の中で日本語を英語にして伝えて、言われた英語をまた頭の中で日本語に変換して・・・という思考プロセスから、完全に英語で聞いて、英語で考え、英語で発言することができるようになったんですよ。
それから、とんとん拍子に成績が上がり、結果的にディーンズリストのトップになった。それを見てビックリした副学長から呼び出しがあって、「What happened?」と聞くわけです。僕は「つい数か月前に呼ばれた時に申し上げたとおり、英語で考えて英語で発言できるようになっただけです。」とね。
そういったこともあり、うらやましがられる位の奨学金と個室までいただいて、無事卒業することができました。
藤井:副学長もよくそこで猶予をくれたとも言えますけれども、普通なら諦めて引き下がるところで、閉まりかけたドアに足を突っ込むというか、引き下がらなかった藤田さんの粘り強さというのもまた素晴らしいですね、その行動力というか、パワーはどこから来るのでしょうね。
藤田:そうですね、根拠は無かったかもしれませんが、この程度の学問ならできるという自信もありましたし、性格的なものかもしれませんが、どの様な状況でもポジティブに考えていましたからできた芸当かもしれませんね。副学長には本当に感謝していますよ。
広告コミュニケーションを生涯のキャリアにするという決断。
藤井:卒業後はすぐに日本に帰られてマッキャンエリクソン博報堂へ入社されたのでしょうか?
藤田:いいえ、私は大学では主にマーケティングを学んでいまして、卒業する頃には広告コミュニケーションを生涯のキャリアにしようと考えていました。その要因の一つとしては、アメリカに行くと決まった時に、いろいろとお世話になった石井一さんという方がおられまして、今、民主党の副代表をやっている方で、スポーツ用品メーカーをやっていた父と交流がありまして、彼がシカゴにいらした時に父から様子を見てきてくれと頼まれて、私を訪ねてきてくれましてね。その時にいろいろとアドバイスをいただいて、「経済学や法学等ではなく、マーケティングを学びなさい、これからの日本にはマーケティングが必ず必要になる」というアドバイスをいただきましてね。それで3年生からは専門課程に入るので、マーケティングを専攻し、学び始めました。
そしてもう一つが、当時のD社に海外担当の専務でS氏という有名な方がおりまして、1963年頃にシカゴの国際広告業協会IAAの日本代表としていらっしゃいまして、これまた見事な英語で日本の広告界の話をしたんですよ。私はその講演を聴きにいっていまして、講演後に楽屋をお訪ねしたのです。
彼は非常に歓迎してくださいまして、いろいろと話をしているうちに、S氏は当時D社の中で国際連絡局というものを立ち上げていて、「卒業したらそこにおいでよ」ということになりました。
卒業間際にS氏に連絡をすると、「藤田君、卒業したら1年半のワーキングビザが貰えるはずだから、どこでもいいからアメリカの広告会社に潜り込んで、勉強してから帰ってきなさい」という返事をいただきました。
そういう経緯から、当時NO.1だと言われていたJ・ウォルター・トンプソン・シカゴの門を叩くのですが、人事担当の方は「申し訳ないけど、うちは修士課程もしくはPhdを持っている人しか採用しないんだよ、藤田君は4年制だからダメですね。」と言われてしまう。
副学長に退学を言い渡されそうになった時と同様に、私は引き下がらずに、「御社には日本に支社があるので、そこの社長に聞いてみてください」と言ってみた。これがまた一つの巡り合わせでして、当時日本の社長がドン・ジョンストンという方で、後に全世界を統括する社長になられた人で、「何がなんでも、その日本の学生を採用してくれ、そして、エグゼクティブ・トレーニング・キャリアに入れてくれ。」と言ってきてくれたのです。
そういう経緯で入社した途端に、給料は貰える、部屋は貰える、秘書も2人に1人ついて、そして、広告界の勉強だけやっていればよいというものすごい環境を与えられて、マーケティング・リサーチ、次はクライアント・サービス、次はメディア・リサーチというように、各部門を順番に回りながら1年半学ばせていただきました。
1年半経ったら日本に帰ってD社に入ろうと思っていましたので、1966年に帰国しました。D社には50年代から60年代にかけて中興の祖と言われた吉田秀雄さんの遺訓が残っており、その3つの柱として「民放」「グローバル・ネットワーク」「得意先のアカウント・プランニング」の3つを伸ばしていくとおっしゃっておられたのですが、当時あまりにもテレビが伸びてしまっていた。それで吉田さんが亡くなられた後に、国内派と国際派のせめぎ合いがあって、役員のSさんを含む国際派が全部退社されてしまった。その後テレビや新聞が右肩上がりに伸びて、D社はすっかりピュアドメスティックになってしまいました。
この事態に私の考える広告コミュニケーションとの方向性の違いを感じ、もっとグローバルに考え、得意先のコミュニケーション戦略を立案するような広告マンにならなくてはいけないと強く感じ、そのフィールドとして、マッキャンエリクソン博報堂に入社することになります。
社会に出て10年目、向学心を目覚めさせた、ある出来事。
このようにいろいろ紆余曲折ありながらキャリアが始まるわけなのですが、マッキャン・エリクソン博報堂に入社し10年ちょっと経った頃に、私が本当に勉強しなくてはいけないと思い始めるある出来事が起こりました。
1979年の8月から12月まで、スイスにあるIMEDE(現在のIMD)というビジネススクールに家族を連れて半年間留学する会社からのスカラシップをいただいて行くことになりました。
その授業の初日、内容は忘れてしまいましたが、教授が何か質問をしたんですね。「anybody?」と言うので私がパッと手を上げて、意見を言ったのです。そうしたら、僕の目の前に座っていたペルーから来ている人だったのですが、「Sir! I totally disagree with what Mr.FUJITA said.」って言ったのです。「なんだ、この野郎!」って思いましたね。
それで彼の考え方を聞いてみたら、確かに僕とは違う意見をちゃんと持っている。そこでふと我に返ってみた時に、もしかしたら僕は勉強足りていないんじゃないかって思ったんですよね。それが38歳の時でしたが、その時から僕の向学心に火がついちゃったんですね。
今72歳になりまして、あの時から34年間経ちますけど、勉強というのは生涯学習なんだと思いますね。本当今思い出してもあの時にあのペルー人に言われた一言は鮮明に覚えていますし、「このペルーのバカ野郎」と思いましたけれども、彼の一言が私にとってのアラームだったわけですね目覚めさせるための。いつ何が人生に影響を与えるかはわかりませんからね。
妻と3人目の子供の突然の死別と、子供2人を抱えての転機。
藤田:IMDが終わって帰国後少し経ってから、3人目の子供を授かりまして、妻の出産の際に私も一緒に病院に行ったのですが、妻が分娩室に入ってから先生に「藤田さん、もう男の子と女の子がいるんだし、どちらが生まれてもいいんでしょう?誕生したら連絡しますから、会社に行っても大丈夫ですよ。」と言われ、私は「ええ、どちらでもけっこうです。では会社に戻ります。」と会社に戻りました。
しばらくすると、会社に電話が掛かってきました。その電話の内容は「奥様が危篤です。」という内容でした。まさに天国から地獄に突き落とされた感じでしたね。私はタクシーをぶっ飛ばして病院へ駆けつけましたが、到着したときには既に事切れていたんです。
くも膜下出血だったんですよね。そこは総合病院ではなく産婦人科でしたから、分娩中に妻がガクっとなった時に、すぐにお腹の方かと思ったらしいのですが、すぐにお腹じゃないと気づいて、総合病院の先生を呼んだ時には既に手遅れだったということでした。赤ちゃんは母親と繋がっていますから、母親が脳死すると10分以内に死んでしまうんですね。そういうこともあり、私は最愛の妻と小さな命を一瞬にして同時に亡くしてしまったのですね。
その後親族会議が行われ、その後の事を話合いました。当時10歳の娘と8歳の息子がおりましたから、二人を育てながら仕事をするというのは難しい状況でした。そのため、神戸の実家に帰って二人を見てもらいながら、近くで何か仕事をしようと思い、会社に辞表を提出しました。
しかし、当時成績も良く、仕事も順調でしたから、上司達から引き止められ、「会社としてもできることを全力でサポートする。」と言ってもらい、結局会社に費用を負担していただき、家政婦をお願いすることにしました。とは言え、子供の教育については私がしっかり見ないといけないと思っていましたから、学校のPTAにはどんなに忙しい時でも全部参加しました。
仕事と子育てのどちらも全力でやるのは本当に大変でしたが、再婚するまでの数年間を多くの人々に支えられながらなんとかやってきました。そして、再婚した妻には、自分の子供ではないのにも関わらず、本当の親以上にしっかりと育ててくれたこと、私を支え続けてくれたこと、本当に感謝してもしきれないですね。
波乱万丈な出来事を次々と乗り越えて来たパワーの源泉とは。
藤田:54歳の時に、いろいろとトラブルに巻き込まれまして、その騒動の中で会社を去ることになります。当時周囲は手のひらを返したように、私から離れていきましたね。ですが、私のことをちゃんと理解してくれている一部の方は、最後まで味方でいてくれて背中を押してくれましてね。大きな挫折でもありましたが、そういった方のお蔭で、何とかここまでこられました。
藤井:奥様が亡くなられた時や、54歳での出来事、そのほかにもタフな出来事を乗り越えて来られていると思いますが、藤田さんのそのパワーの源泉はどこにあるのでしょうか?
藤田:そうですねぇ、もともとポジティブな性格であるということはあるのでしょうけれども、今振り返って考えてみると、”どんなことでも乗り越えられる”ということが自信になっているのでしょうね。
そして何より、時代の常識にこだわらずアメリカに放り投げた父や、私の可能性をいつも応援してくれた武宮校長、フリン先生、そして同じように私を信じてくれた副学長、前妻が無くなった時に協力してくれた上司達、トラブルの際に信じてくれた方々、そういった山あり谷ありの私を常に支えてくれた家内にも最高に感謝しています。こうして時系列で考えてみると、いつも私の転機には私を信じて力になってくれる人がいましたね。本当に素晴らしい人達に恵まれたことに感謝しています。
グローバルコミュニケーションという仕事を貫き続ける私が影響を受けた人物。
藤田:私が尊敬している人の一人でもある吉田秀雄さんは「必ず日本も国際的にやっていくときがくる、だからこそグローバルネットワークをつくるんだ!」と、いつも言っていました。しかし、残念なことにその部分に関して私たちの日本の広告業界は壊滅的でして、国内のシェア1番手・2番手・3番手で食っていけるんだからそれでいいじゃないかと甘んじてしまっているというのが正直なところ今の業界の現状です。
僕のキャリアの中で、なぜグローバルコミュニケーションをやり続けているかというと、客観的な事実として、私と同じようなことをやっている人がいないということです。
私が仕事において徹底していることは”For The Client”と”Best of the two world”ということです。ドラッカーの言葉で「企業に利益と成長をもたらすのは、イノベーションとマーケティングだけだ」というものがあります。どの様な時もお客様のところに伺うと「商売の状況はどうでしょう」というところからはじめます。1業種1社も徹底し”メディアを売るための提案”ではなく”顧客の課題を解決する”ということを一つのポリシーとてして徹底しています。
当たり前のことのように聞こえますが、これが案外できていない。更に国際化が当たり前になった中で、現在アジア24か国のリージョナルディレクターでもありますが、グローバルネットワークを持つことは長年にわたりやってきたことですし、国際化が避けて通れない日本企業が海外でも飛躍するためにお役に立てればと思っています。
私は職場はJ・ウォルター・トンプソン、マッキャンエリクソン博報堂に24年、東急エージェンシーの役員をやり、そして現在お世話になっているオグルヴィ・メイザーと職場は4回変わりましたけど、”職業”を変えたことは無いんですよね。この歳になってもこの職業に対する興味関心は尽きないですし、意義も感じてやっている。生きがいであると同時に、何とか次の世代へと引き渡していきたいですね。
グローバルという面から影響を与えた人物。
藤井:藤田さんは学生のころから、これからはグローバルだという信念を持ち続けてこられましたけれども、そういった点で影響を与えた人物は他にもいらっしゃいますか?
藤田:他にも影響を受けた人物はたくさんおりますが、経団連の会長を務めて、70年の万博を仕切った石坂泰三氏。彼は1960年頃だったと思いますが、資本の自由化を推進していまして、当時経団連の会長か、もしくはそれに近かったと思うのですが、今のTPPと同じで反対する人も多くいるなかで、「何をいっておるか、どんどん海外の資本を入れて切磋琢磨していかないでどうするんだ!」と一喝したと言われている。
彼は経団連の会長も無事務めて、資本の自由化も進め、万博を推進し、東京オリンピックまで老躯にムチを打って前に進めていった。尊敬している人のひとりですね
もう一人は日本IBMの最初の27年間やられた椎名武雄さんですね。
IBMの研修所に呼ばれて2度ほどお話を聞かせていただいたのですが、その時彼が言った言葉で印象深いのは「Sell IBM in JAPAN but Sell JAPAN in IBM」と言う言葉。IBMを日本で売りましょう、それだけでなく、日本をIBMにわかってもらいましょうという意味。とても感銘を受けたのを覚えています。
SONYの井深・盛田の両氏ですよね。
盛田さんは日本の電機業界がブレイクスルーするには、アメリカの市場で成功することだと、50年代にマンハッタンに店を出しました。私はニューヨークに62年頃に行った時に、日本の旗がなびいているのを見て感動したのを覚えていますね。そしてその後ソニーは破竹の進撃をした。当時のお二方のエピソードはたくさん言い継がれていますが、当時の私にとってとても刺激になったのを覚えています。
そして最後に、富士ゼロックスの先駆者の小林陽太郎さんでしょうね。経済同友会の代表幹事も4年間務められていますが、陽太郎さんは全てにおいて、コスモポリタンであり、グローバルであり、そして大変ダンディである。
富士ゼロックスは、富士フィルムとアメリカのゼロックスが合併して作ったジョイントベンチャーとして、2つの違う文化を統合して成功されたことはもちろんですが、何よりも彼は常に意識の中に、「人の一生というのは一体何なのか」ということを希求されてきた。人間として如何に立派で崇高な考え方を持っておられまして、そういった点においてもとても尊敬しております。
その原点になるエピソードとして、小林陽太郎さんは1985年に当時のゼロックスの社長に誘われて、世界中のトップビジネスマンが集まり、世界平和や世界の成長等について議論し合うアスペン研究所に行くことになる。元々時間があれば本を読まれているような勉強家の陽太郎さんは、トップビジネスマンがビジネスの話を差し置いて、哲学・歴史・芸術について徹底的に討議する中で、その重要性を感じ、その後アスペン研究所ジャパンの立ち上げをされました。
ここで挙げた方々はもちろんですが、そのほかにもグローバルの中で尊敬され、賞賛され、成果を出してきた方々が日本にいるのだということは是非若い人にも知って欲しいですね。
グローバルが当たり前の社会の中で、成果を出し続けることができる人になってほしい。
藤井:本当に長い時間のインタビューありがとうございました。自らのキャリアを振り返って、そこから今後の日本を背負っていく若いリーダー達へのアドバイスがあれば是非お願いします。
藤田:こうして自分のキャリアを振り返ってみると、本当にいろいろな事がありましたが、やはり”人との出会い”と”様々な経験”から学び、成長してきたということを実感しますね。父親の一言で突如アメリカに留学したことなど、最初はどうなることかと思いつつも、最終的にやり遂げてきたということが後の自信につながってきていると思いますね。
私は広告コミュニケーションの仕事においても。自分の中にある”For The Client”と”Best of the two world”いう価値観を大切にし、業界の本来あるべき姿とはどういうものなのかということを常に意識してやってきました。会社は4回変わりましたが、コミュニケーション業とは「For The Client」であるべきなのだという考え方を軸にしたコミュニケーションのプロフェッショナルとして職業は一度も変えることはありませんでした。
成功も挫折も波乱万丈いろいろとありましたが、自分が信念を持って逃げずに立ち向かえば、必ず道が拓けました。そして転機にはいつも私の可能性を信じて後押ししてくれる恩師、上司、仲間、そして家族がいました。
これから更にグローバル化が進み、日本の企業、日本人はグローバル環境が当たり前な環境下で今後リーダーシップを発揮していくことになります。目の前にある課題に対しても、誰かにやってもらうのを待つのではなく、自らがその課題に対して逃げずにリーダーシップを発揮していく。そのためには、やはり自らがリーダーとしての決意と覚悟が必要なのではないでしょうか。社長、部長、課長というような役職的なリーダーということではなく、一人ひとりがリーダーであるという自覚を持つことが、この先最も重要なことなのではないでしょうか。
私は生涯学習だと思っておりますが、昨今、社会はめまぐるしいスピードで変化していきます、その変化を大局的に観察し、その中で自分はどうあるべきなのかを考え、チャレンジし続けていくことで、自分を高めていくことを忘れないで欲しいですね。
インタビューを終えて 藤井義彦
藤田氏の「不屈の精神」そして「ポジティブな性格」が全てのキャリアの原動力となっており、そのエネルギーに引き寄せられるようにキーマンとなる「人との出会い」が彼を後押ししているようにも思える。
同じ体験をした私も同様だが、六甲学院の6年間が彼の土台を形作ったことは間違いない。六甲学院の便所掃除(便番)上半身裸でグラウンドを約6周する中間体操、
60キロのマラソン大会等々で藤田氏は心身共に鍛えられ、名物校長の武宮隼人氏の「ケチな人間になるな」「心を挙げよ」等の言葉は私たちのバックボーンとなった。
これが六甲の精神「Man for others & with others」につながってくる。
アメリカの大学では語学の壁に苦戦し、日本の企業では種々の修羅場を経験するが、何時も旺盛なチャレンジ精神で克服していく。私的には深い同情を禁じ得ないが、妻と3人目の赤ちゃんを晴天の霹靂で亡くし、子供二人を抱えて、大きな転機を経験、その悲しみを乗り越えた藤田氏は大きく何倍にも成長したのに相違ない。
仕事の中でも終始徹底してきた彼の”For The Client”という価値観。広告コミュニケーション業界に限らず、これからのグローバル社会の中のビジネスで重要な要素であることは間違いない。
このインタビューでは深く語られていないが、ここでも藤田氏は後の伴侶となる素晴らしい女性と出会った。まさに神の配慮であろうが、その伴侶が子供二人を我が子のように育て上げてくれた。藤田氏のキャリアを詳細に知って、藤田氏こそグローバル・リーダーと呼ぶにふさわしい人物であると思う。
「生涯現役」をモットーに、彼の知識と体験を世界における日本の位置の向上と日本を担う若人の教育のためにどんどん発信していって欲しいものだ。
真っ直ぐで、エネルギー溢れる藤田氏のますますのご活躍を期待している。